哲学対話の会(2020.12.27)開催報告

12回(2020/12/27)は3名で哲学対話を行いました。体調を崩した方が多く、キャンセル続出となってしまいました。新型コロナウイルスの感染拡大中だから仕方ないですが、残念でした。

趣旨・ルール説明、自己紹介のあと、参加した人から問いを出し合いました。

出された問いは以下のとおりです。

 

① 誰も傷つけない哲学対話は可能か

② お互いの意見を解りあうとはどういうことか

③ 論理的な考え方というのが絶対的に存在するのか

④ 論理的であるとはどういうことか

⑤ 安心して対話できる場とはどういうことか

⑥ 情緒的にわかることはわかった気になっているだけではないのか

 

人数が少ないので、進行役の奥田が気になっていた哲学対話に関して問いを出させてもらい、「わかるとは」とか「対話とは」とか「論理的とは」などを中心に対話を行いました。

 

・哲学対話は安心安全な場と説明しているが、悪気なく他の参加者を傷つけてしまうことも起こりうる。でも誰も傷つけないようにしようとすると何も発言できなくなるとも思う。

・傷ついたり不快になるのは、多数派の意見の押し付けを感じたときではないか。そういった発言に対し、「自分は○○だから不快に感じた」とフラットに言えたら安心安全な場と言えるのかもしれない。

・哲学対話でいう「安心安全な場」は不明確な表現だと思う。

・わかるには二種類ある。論理的なものと情緒的なもの。情緒的にわかったと考える人はわかっていないのではないかと思う。大多数の人は、判断できる根拠がないのにわかったと言ってると思う。

・哲学対話の発言に対し、異論を唱えると感情的に受け止められてしまうことが多いと感じる。相手を否定しているわけではなく自分の考えを言っているだけなのに。日本では人と発言を同一視する傾向が強いのではないか。

・哲学対話では、対話といいながら言いっぱなしの場になることも多い。

・発言の背景を知ることで、同調ではなくその人の思考回路が理解できることはある。

・わかろうとする目的によってわかるの意味は違ってくる。

・論理的と科学的はどう違うか。科学は多くの人が合意形成するルール。

・精神分析家が一言発言しただけで患者が「先生は自分をわかってくれた」と言ったエピソードを聞いたことがあるが、そんなことはありうるのか。

・その場合の「わかる」は自分の側に立ってくれた、という意味ではないのか。患者はモノ扱いされていると感じがちだと思う。

・わかってもらった感じとは何か。受け入れてもらったことと同じか。

・宗教により進化論を決して認めない人と話していて、わかりあえないと感じた。

・トランプに投票する人の気持ちがどうしてもわからず不快に感じていたが、その人たちの考えを知るためいろいろな情報に接したところ、だんだんわかるようになってきた。

・哲学対話が安心安全な場となるにはどうしたらよいか。

・異論、反論に気分を害さず、楽しめるようになること。

・気分を害さないように対話するテクニックはあると思う。

・動機を聞かれると非難されていると感じる人が多い。

・人と考えが違うときどういう態度をとるか。他人の倫理的に間違っていると思われる行為に対してどう介入できるか。差別問題や児童虐待など様々な場面で起こりうる。

・人の意見に耳を傾けられるかどうかは、風通しのよい人間関係が重要ではないか。人は孤立すると意固地になりがちに思う。

・自然に多様性を受け入れるような場面が増えるといい。