哲学的な問いをつくります。
私たちは、哲学とは、複雑な概念で世界を説明しようとすることではなく<原理を探究する行為>だと考えます。
<原理を探究する行為>は、問いをつくることから始まります。
ルールがない対話では、声の大きな人、難しい言葉をたくさん知っている人、弁の立つ人が多く発言することになってしまいます。
「ほかの人の意見を否定しない」「専門用語を使わない」「話さなくてもいい」など、哲学対話のルールを守ることで、安心して発言することができます。
専門用語を使わず、参加者のみんながわかる表現で話すことがルールです。
学者や権威のある人が言っていたことではなく、自分が経験してきたことの中から、小学生にもわかる表現で、自分の言葉で伝えることが求められます。
ワークショップやワールドカフェでは、課題解決や関係づくりなどの目的がありますが、哲学対話では、参加者共通のゴールはありません。
それぞれが自らの問いを深め、思考力を高めることが目的です。
哲学対話、哲学カフェでは、答えを求めることはなく、時間が来たら対話は終了します。
モヤモヤする、わからなくなることがむしろ「良いこと」だと考えます。
思考の前提を問うもの、今までと世界への視点が変わる問いが「哲学的な問い」だと考えます。
Aさん
問い「暴力はなぜいけないか?」
Bさん
問い「あらゆる暴力が排除された環境で育った子どもは、いざという時に自分を守れない弱い子どもになってしまうのではないか?」
Cさん
問い「ドラゴンボールはなぜ何世代にもわたって子どもたちを魅了しつづけるのか?」
Dさん
問い「動物の肉を食べている人は動物への暴力に加担しているのか?」
参加している人それぞれに違う問いが出てきます。
ある人にとっては当たり前の問いでも、別の人にとっては目から鱗の問いかもしれません。
私たちには「単純に考えたがる」「自分に都合よく考えたがる」思考のクセがあるように思います。
集中した場で問いを出し合うことで、今までと違った視点に気づくことができます。
梶谷 真司 (著)「考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門」 (幻冬舎新書) を読まれることをオススメします。
「…私が『考えること』を通して手に入れる自由を強調するのは、現実の生活の中では、そうした自由がほとんど許容されていないからであり、しかもそれは、まさに考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中のいたるところに働いているからである。だから、自由になるためには、『考えること』としての哲学が必要なのである。」